35 「彼らは、エリムから出発し、そして、紅海の畔に泊まった[1]」とあります。あなたは、彼らがもはや紅海の中に入らないことにご注意ください――中に入ることは、一度だけで十分です。いまや彼らは、海の畔に泊まります。こうして彼らは、その諸々の波を目の当たりにしますが、その諸々の動きと諸々の激動を決して恐れません。

「そして彼らは、紅海から出発し、シンの荒れ野の中に泊まりました[2]」。シンは、藪あるいは誘惑と解釈されます。さて、もうあなたには、諸々の善き事柄の希望が微笑みかけ始めています。しかし、諸々の善き事柄の希望とは、何でしょうか。主は「藪から現われ」、モーセに諸々の応えを与えました[3]。そして、そのことから、イスラエルの子らへの主による訪問の始めが作られました。しかし、シンがさらに誘惑と解釈されるも無駄なことではありません。なぜなら、諸々の視像の中にも試練が存在するのが常だからです。たとえば不正の使いは、時折、「光のみ使いにみずからを変容させます[4]」。ですからあなたは、ヌンの子ヨシュアもしたように、諸々の視像の類を賢明に識別するために、警戒し慎重に行動すべきです。彼は、視像を見たとき、その中に試練が存在することを察知し、 (姿を)現した者に直ちに尋ねて、言っています:「あなたは私たちのものですか、それとも、敵たちのものですか[5]」と。ですから、そのように進歩する魂は、諸々の視像の識別を始める所まで来ると、それは「霊的な者」であると認証されるでしょう――もしもそれが、「すべてのも事柄を識別する術を知っている」なら[6]。ですから、そういうわけで、霊的な諸々の賜物の中には、聖霊の諸々の賜物の一つとして、「諸々の霊の識別」があると、言われています[7]



[1] Nb.33,10.

[2] Nb.33,11.

[3] Cf.Ex.3,2s.

[4] Cf.2Co.11,14.

[5] Jos.5,13.

[6] Cf.1Co.2,15.

[7] Cf.1Co.12,10.