37 もしも私たちが、一つひとつの住居を通って行き、その一つひとつ(の住居)から――諸々の名称の観相から何かが示唆されるとして――その何かを開示しようと望むらな、冗長になります。私たちは、ざっと手短に走り抜けることします。それは、あなた方に充全な説明を提供するというよりも――なぜなら、そのための時間の余地がまったくないからです――、理解の諸々の切っ掛けを提供するためです。

さて、「彼らはドフカから出発し、アルシュの中に来た[1]」とあります。アルシュは、諸々の労苦と解釈されます。諸々の労苦が健康に続くとしても、あなたは驚かないでください。なぜなら、魂が神から健康を与えられるのは、魂が諸々の労苦を嫌々ながらでなく、喜んで引き受けるようになるためだからです。実際、魂には次のように言われるでしょう:「あなたは、あなたの諸々の実りの諸々の労苦を食べるだろう。あなたは幸せ者。幸運があなたに望むだろう[2]」と。

それらの後で、「彼らはレフィディムの中に来る[3]」とあります。ところで、レフィディムは、判断の賛美と解釈されます。賛美が諸々の労苦の後に続くのは極めて正当なことです。しかし、何の事柄の賛美でしょうか。「判断の」と、(聖文書は)言っています。ですから、正しく判断し正しく識別する魂、すなわち、「すべてのものを霊的に判別し、しかもそれ自身が誰からも判別されない[4]」魂は、賛美に値するものになります。



[1] Nb.33,13.

[2] Ps.127,2(直訳している).

[3] Nb.33,14.

[4] 1Co.2,15.