38 それらの後で、「(民は)シナイの荒れ野の中に到達する[1]」とあります。シナイそれ自体は、さきほど(聖文書が)「シンと呼んでいた荒れ野[2]」の或る場所です。しかし、ここではむしろ、荒れ野それ自体の中にある山の場所が話題になっていて、それ自体がさらに荒れ野の呼称からシナイと命名されています。ですから、魂が判断の点で賞賛に値する者とされ、正しい判断を持ち始めると、その後、律法が神によってその魂に与えられます。なぜなら魂は、神的な諸々の秘密と天的な諸々の視像を許容できる者になり始めたからです。

そこから「(民は)欲望の諸々の墓標の許に来る[3]」とあります。欲望の諸々の墓標とは何でしょうか。疑いもなくそこは、諸々の欲望が葬られ埋葬されている場所、一切の欲求が消され、もはや「肉が霊に反して欲求する[4]」ことのない場所、すなわち、キリストの死によって肉が死に渡された場所です。

それらの後で「(民は)ハツェロトに来る[5]」とあります。それは、完成された諸々の広間、あるいは、至福と解釈されます。ああ、私の旅人よ! 諸々の進歩の順序がどのような者であるかを、あなたはもっと注意深く見てください。あなたは、肉の諸々の欲望を葬って死に渡した後、諸々の広間な諸々の広大さの許に来るでしょう;あなたは至福の許に来るでしょう。実際、肉のいかなる諸々の悪徳によっても掻き立てられない魂は、幸いです。



[1] Nb.33,15.

[2] Nb.33,11.

[3] Nb.33,16:新共同訳では、「欲望の諸々の墓標」は「キブロト・ハタアワ」と訳されている。

[4] Ga.5,17.

[5] Nb.33,17.