39 そこから「(民は)リトマあるいはファランの中に来る[1]」とあります。リトマは完全された視像と解釈され、ファランは可視的な相貌と解釈されます。どうして魂は次の程度に成長しないでしょうか:肉の諸々の煩悩によって掻き立てられることを止めたとき、魂は、完成された諸々の視像を持ち、諸事物の完全な理解を得る、すなわち、神のみ言葉の受肉の諸々の原因と、彼の諸々の取り計らいの諸々の理拠を、より完全に、かつ、より深く認識する理由とを一層十全に、また、一層深く認識するのではないでしょうか。

いまや(民は)ここから、「リモン・ペレツの中に来る[2]」とあります。それは、私たちの言葉の中では、崇高な切断と言われます。すなわちそこは、偉大で天的な諸々の事柄と地的で低級な諸々の事柄との分離と識別がある場所です。実際、魂の理解が成長することによって、崇高な諸々の事柄の認識が彼に提供され、判断が与えられます。それによって魂は、諸々の時間的なものから諸々の永遠的なものを切断すること、そして、諸々の永続的なものから諸々の滅び行くものを分離することを知ります。



[1] Nb.33,18.

[2] Nb.33,19.