そればかりか、諸々の福音や使徒(の書簡)あるいは諸々の詩編が朗読されるとき、彼は喜んで受け容れ、進んで抱擁し、自分の弱さの或る諸々の治療薬をそこから取り集めて喜びます。もしもその人に、諸々の数[1]の書と、特に、いま私たちが諸々の手の中に持っている諸々の箇所が読まれるなら、彼はそれらが何の役にも立たず、自分の弱さの治療や魂の救いにもまったく役立たないと判断して、直ちに押しのけ吐き出すことでしょう――病気で力のない魂に不向きな重くて嫌な諸々の食べ物として。しかし、たとえば――再び諸々の物体的なものから、私たちは再び例を取りましょう――ライオンにもしも知性が与えられているとしても、ライオンは、自分が諸々の生肉食べるからという理由で、諸々の草が豊富に創造されたことをすぐに非難しないでしょう。また、自分がそれらを食べ物として利用しないからという理由で、それらが造り主によって余計にもたらされたのだとは言わないでしょう。また人間にしても、自分がパンとその他の自分に適した諸々の滋養物を使っているからという理由で、なぜ神が諸々の蛇――神はそれらを鹿たちに食べ物として提供しているように見えます――を作ったのかと言って非難するはずがありません。また羊や牛も、自分たちには食べるために諸々の草だけで十分なのに、たとえば他の動物たちには肉を食べることが許されていることを非難するはずがありません。



[1] 直訳している。もちろん、それは民数記である。