40 それらの後で、「(民は)リブナに来る[1]」とあります。それは、漂白と解釈されます。私は、多の諸々の箇所の中で、漂白が非難の意味を込めて置かれているのを知っています――たとえば、「漂白された壁[2]」と、「漂白された諸々の墓標[3]」が言われるときです。しかし、ここでの漂白は、預言者が次のようにいう漂白です:「あなたは、私を洗うでしょう。そして、私は雪にまさって漂白されるでしょう[4]」と。またイザヤも、「たとえあなた方の諸々の罪が緋のようでも、私は雪のように漂白するだろう。そして私は、純白の羊毛のようにする[5]」と言っています。同様に詩編の中でも、「彼らは、ツァルモン()の中で雪によって漂白されるだろう[6]」とあります。そして、「諸々の日々の老いた人たちの諸々の頭髪は純白である、すなわち、羊毛のように白い[7]」と言われています。ですからその漂白は、真の光の輝きから来るものであり、天的な諸々の光景の輝きから降りてくるものと理解されるべきです。

それらの後で、住居は「リサ」の中に設けられます[8]。それは、私たち許で、可視的なあるいは称賛すべき試練と呼ぶことができます。魂がどんなに大きな諸々の進歩を持っても、諸々の試練が魂から取り除かれないというということ、これはどういうことでしょうか。それがどういうことかは、諸々の試練が、ある種の保護や防壁として魂に課せられるということから明らかになります。実際、肉は、もしも塩漬けされなければ、それがどんなに上等で高価なものであっても、腐ってしまいます。同じように魂も、諸々の絶えざる試練によっていわば塩をかけられなければ、たちどころに腑抜けて弛んでしまいます。ですから、それによって、「一切の生け贄は塩によって塩漬けされなければならない[9]」と言われているのは、明らかです。また、パウロが次のように言っていたことも、それに由来します:「そして、諸々の掲示の絶頂によって、私が持ち上げられないようにするために、私の肉の突き棒――私を平手打ちするサタンの使い――与えられました[10]」と。ですから、可視的なあるいは称賛すべき試練とは、そのようなものです。



[1] Nb.33,20.

[2] Ac.32,3.

[3] Mt.23,27.

[4] Ps.50,9.

[5] Is.1,18.

[6] Ps.67,15.

[7] Dn.7,9.

[8] Nb.33,21.

[9] Lv.2,13.

[10] 2Co.12,7.