42 そこから、住居が「マクヘロト[1]」に設けられます。それは、「元から」と解釈されます。実際、完成を目指す者は、諸事物の元を観想します。いやむしろ、ありとあらゆるものを「元の内に方[2]」に帰し、その「元」から決して離れません。

それらの後で、住居は「タハト[3]」の中に作られます。それは、堅信あるいは忍耐ということです。他の人たちも有益でありたいと望む者は、多くの苦しみを受け、ありとあらゆる事柄を忍耐強く担う必要があります。それは、パウロについて言われているとおりです:「彼が私の名のゆえにどれほど多くの苦しみを受けねばならないかを、私は彼に明示しよう[4]」。

そこから(民は)、「テラが来ます[5]」。それは、私たちの許で、茫然自失の観想と理解されます――我々は、ギリシア人たちがe;kstasijと読んでいる事柄を、ラテン語の中で一つの言葉で表現することができない。それはすなわち、魂が何らかの偉大な事柄の感嘆の故に魂が唖然とするときの状態である――[6]。茫然自失の観相が言っているのは、そのことです。それは、偉大で驚くべき諸々の事柄の認識の中で驚愕した精神が自失するとき起こります。



[1] Nb.33,25.

[2] Cf.Jn.1,1.

[3] Nb.33,26.

[4] Ac.9,16.

[5] Nb.33,27.

[6] ルフィヌスによる補足と思われる。「エクスタシス」には、一応、「脱自」という訳語がある。