43 これらの後で(民は)、「ミトカの許に来る[1]」とあります。それは、新しい死と解釈されます。新しい死とは何でしょうか。それは、「私たちが彼と共に生きるために、キリストと共に死に、キリストと共に葬られる[2]」ときです。

それから(民は)、「ハシュモナに来る[3]」とあります。それは、骨あるいは諸々の骨を意味すると言われます。それらによって疑いもなく、忍耐の徳と強さが宣言されます。

そこから、「モセロト[4]」の許に住居が持たれます。それは、排除することを意味すると考えられます。何を排除するのでしょうか。疑いもなくそれは、自分の諸々の考えから、敵対する霊の諸々の邪な教唆を排除します。実際、神の知恵も、そのような意味で言っています:「権能を持つ者の霊があなたの上に昇ったなら、あなたはあなたの場所を手放してはならない[5]」と。ですから、敵対者が私たちの心の中に場所を見出さないようにするために、場所は保持されるべきであり、敵対者は排除されねばなりません。それは、使徒が次のように言っているとおりです:「あなた方は、悪魔に場所を与えようとしてはなりません[6]」と。

それらの後で(民は)、「ベネ・ヤアカンに来る[7]」とあります。それは、諸々の泉あるいは諸々の濾過を意味します。すなわち(魂は)、諸々の神的な言葉の諸々の泉(からの水)を飲む場所、あるいは、飲むときにそれらを濾過する所にまで(来ます)――ところで、ここで「濾過する」という言葉は、「濾す」という言葉から言われるのであって、「耕す」という言葉から言われるのではない[8]――。ですから、人が「もっとも小さな掟」も見過ごさないとき、いや、人が、神のみ言葉に関しては「一点一画も」その理解にとって無駄にならないと見なすとき[9]、その人は神のみ言葉を濾過します。



[1] Nb.33,28.

[2] 2Tm.2,11.

[3] Nb.33,29.

[4] Nb.33,30.

[5] Cf.Qo.10,4.

[6] Ep.4,27.

[7] Nb.33,31.

[8] ルフィヌスによる補足と思われる。

[9] Cf.Mt.5,18-19.