44 それらの後で(民は)、「ホル・ギドガドの中に来る[1]」とあります。それは、試練あるいは圧迫と解釈されます。私が思うに、試練は、魂の或る強みと防御です。実際、それが諸々の徳に混ぜ合わされているのは、それらがなけれは、徳は優美にも充全なものにも見えないからです。そういうわけで、徳へと進歩する者たちには、多様な諸々の住居が諸々の試練の中に頻繁に設けられます。

あなたがそれら(の住居)を過ぎ越すと、あなたは「ヨトバタの中に泊まるでしょう[2]」。このヨトバタは、諸々の善と解釈されます。ですから、諸々の善の許には、諸々の試練の諸々の体験の後でなければ、来ないでしょう。

そこから、「彼らは、アブロナの中に泊まった[3]」と、(聖文書は)言っています。それは、通過です。実際、すべてのものが過ぎ越されねばなりません。なぜなら、たとえあなたが諸々の善きものの許に来ても、あなたはさらにもっと善きものの許へと過ぎ越さなければなりません――最終的にあなたが、その中に常に留まるべきところのあの善きものの許に来るまで。

それらの後で(民は)、「エツヨン・ゲベルの許に到達する[4]」とあります。それは、大人の諸々の熟慮とされます。もしも人が、諸々の考えにおいて子どもであることを止めたとすれば、その人は、大人の諸々の熟慮に到達します――次のように言っていた人と同じように:「しかし、私が大人になったとき、私は、幼子に属していた諸々の事柄を脇に置いた[5]」と。ですから、大人の諸々の熟慮は偉大です。それは、彼も次のように言っているとおりです:「大人の心の中にある熟慮は深い水である[6]」と。



[1] Nb.33,32.

[2] Nb.33,33.

[3] Nb.33,34.

[4] Nb.33,35.

[5] 1Co.13,11.

[6] Pr.20,5.