46 それらの後で、「ツァルモナ[1]」という住居が続きます。それは、分け前の影と解釈されます。私は、預言者がそれについて次のように言っていたところの影が言われていると思います。すなわち、「私たちの顔の霊、主キリスト[2]。彼に向かって私たちは言いました:私たちは彼の影の中で、異邦人たちの中で生きましょう[3]」とあります。それはかりかその影は、それについて次のように言われているところの影に似ています:すなわち、「主の霊はあなたを影で覆うでしょう[4]」と。ですから、私たちの分け前の影――それは、諸々の試練の一切の熱から私たちのために影を与えてくれます――は、主なるキリストであり、聖霊であります。

そこから「私たちは、プノンの許に来る[5]」とあります。それは、口の節制と解釈されると、私たちは考えます。実際、キリストと聖霊に関する神秘を直観することができた人、そして、「人間たちに語ることが許されない」諸々の事柄を見たり聞いたりした人は、必然的に口の節制を持つでしょう。なぜなら彼は、どのような人たちに、いつ、どのような仕方で諸々の神的神秘について語るべきかを知っているからです。

それらの後で、(民は)「オボトに来る[6]」とあります。たとえ私たちが、その名称の解釈を見出さなかったとしても、他のすべての諸々の名称の中と同じように、その名称の中にも、諸々の進歩の連続性が保たれていることを、私たちは疑わないようにしましょう。

それらの後で、「ガイ[7]」と呼ばれる住居が続きます。それは、混沌と解釈されます。実際(魂は)、それらの進歩を通して、「アブラハムの懐」の許に近づきます――彼は、諸々の責め苦の中にいる人たちに向かって次のように言っています:「あなた方と私たちの間には、大きな混沌が堅く据えられている[8]」と――。それは()自身も、あの幸福なラザロと同じように、彼の諸々の懐の中に憩うためです。



[1] Nb.33,41.

[2] 「私たちの顔の息吹、油注がれた主」とも訳せる。

[3] Lm.4,20.

[4] Cf.Lc.1,35.

[5] Nb.33,42.

[6] Nb.33,43.

[7] Nb.33,44.

[8] Lc.16,26.

 

 

 

 

 

46 それらの後で、「ツァルモナ[1]」という住居が続きます。それは、分け前の影と解釈されます。私は、預言者がそれについて次のように言っていたところの影が言われていると思います。すなわち、「私たちの顔の霊、主キリスト[2]。彼に向かって私たちは言いました:私たちは彼の影の中で、異邦人たちの中で生きましょう[3]」とあります。それはかりかその影は、それについて次のように言われているところの影に似ています:すなわち、「主の霊はあなたを影で覆うでしょう[4]」と。ですから、私たちの分け前の影――それは、諸々の試練の一切の熱から私たちのために影を与えてくれます――は、主なるキリストであり、聖霊であります。

第三十六宿営地 プノン

そこから「私たちは、プノンの許に来る[5]」とあります。それは、口の節制と解釈されると、私たちは考えます。実際、キリストと聖霊に関する神秘を直観することができた人、そして、「人間たちに語ることが許されない」諸々の事柄を見たり聞いたりした人は、必然的に口の節制を持つでしょう。なぜなら彼は、どのような人たちに、いつ、どのような仕方で諸々の神的神秘について語るべきかを知っているからです。

第三十七宿営地 オボト

それらの後で、(民は)「オボトに来る[6]」とあります。たとえ私たちが、その名称の解釈を見出さなかったとしても、他のすべての諸々の名称の中と同じように、その名称の中にも、諸々の進歩の連続性が保たれていることを、私たちは疑わないようにしましょう。

第三十八宿営地 イイエ・アバリム

それらの後で、「ガイ[7]」と呼ばれる住居が続きます。それは、混沌と解釈されます。実際(魂は)、それらの進歩を通して、「アブラハムの懐」の許に近づきます――彼は、諸々の責め苦の中にいる人たちに向かって次のように言っています:「あなた方と私たちの間には、大きな混沌が堅く据えられている[8]」と――。それは()自身も、あの幸福なラザロと同じように、彼の諸々の懐の中に憩うためです。



[1] Nb.33,41.

[2] 「私たちの顔の息吹、油注がれた主」とも訳せる。

[3] Lm.4,20.

[4] Cf.Lc.1,35.

[5] Nb.33,42.

[6] Nb.33,43.

[7] Nb.33,44:「ガイ」(Gai)は、新共同訳では、「イイエ・アバリム」と訳されている。

[8] Lc.16,26.