48 それらの後で(民は)、「アルモン・ディブラタイムに来る[1]」とあります。それは、諸々の無花果の軽蔑と解釈されます。すなわちそこは、数々の地的なものがすっかり軽蔑され見下されるところです。実際、諸々の地の中で(人を)喜ばせる諸々の事柄が蔑まされ軽蔑されなかったとすれば、私たちは、諸々の天的なものに過ぎ越すことはできません。

実際、それら後で、「ネボの手前のアバリム[2]」という住居が続きます。それは過越です。他方、ネボは離別と解釈されます。実際、魂は、それらすべての諸々の徳を通して旅路をし、完成の頂点に昇ったとき、いよいよ(この)代から過ぎ越し離別します。それは、エノクについて書かれている通りです:「そして彼は、見出されなかった。なぜなら神が彼を運び去ったからだ[3]」と。そして、たとえそのような類の人が、相変わらず(この)代の中におり、肉の中に住んでいるように見えても、彼は見出されません。何において彼は見出されないのでしょうか。いかなる世俗的な行いの中にも、いかなる肉的な事柄の中でも、虚栄のいかなる会話の中にも、見出されません。なぜなら神が、それらの事柄から彼を運び出して、諸々の徳の領域の中に存在せしめたからです。

最終的な住居は、「ヨルダン川の近くのモアブの東側[4]」にあります。たしかにこの一切の走行は、だたこの目的のために行われ、ただひたすらこの目的のために走破されされます。すなわち、(魂が)神の川の畔に到達し、私たちが知恵の流れに最も近いものとなり、神的な知恵の諸々の流れに浸されてため、そして私たちが、そのようにしてあらゆる事柄を通して浄められ、約束の地に入るのに相応しくされるようになるためです。

差し当たり私たちは、イスラエル人たちの諸々の住居に関して、説明の一方の仕方に従いながら[5]、以上の事柄を足早に取り上げ、公衆(の皆さん)に表明することができました。



[1] Nb.33,46.

[2] Nb.33,47.

[3] Cf.Gn.5,24.

[4] Nb.33,48.

[5] 省略