49 しかしながら、ヘブライ語の諸々の名称の諸々の意味を走り抜けた以上のような説明が、その言語の特性を知らない人たちにとって、作為的で強引に歪められたものに見られないようにするために、私たちは、この(解釈の)首尾一貫性の理拠が明らかになるような類例を、私たちの言語の中で与えてみましょう。さて、子供たちが最初の諸々の要素を受け取る初等学校の中では、ある子供たちは文字学習者たちと言われ、他の子どもたちは音節学習者、他の子どもたちは名詞学習者と言われ、また他の子どもたちは計算学習者と呼ばれます[1]。そして私たちは、それらの名称を聞くと、それら(の名称)から、どのような進歩が子どもたちの中にあるかを知ります。同様に諸々の自由学科の中でも、青年たちが演説や賛辞などの論題を朗読し、あるいは、(その他の)諸々の教科を整然と朗読するのを私たちが聞くと、私たちは、その教科の名称から若者の進歩に気を向けます。ですから同様に、諸々の教科の諸々の名称のように名指される諸々の場所の諸々の名称を通して、私たちは、神的な諸々の教育の中で学ぶ人たちの諸々の進歩が示されると、どうして信じないでしょうか。そして、彼らは、個々の諸々の教科に留まりつつ、それらの中にいわば諸々の住居を作り、一つの住居から別の住居へ、さらに別の住居へと出発するように見えます。同様にここでも、諸々の住居の名称と、一つの住居から他の住居への出発、さらに別の住居から他の住居への出発も、精神の進歩を示し、諸々の徳の諸々の増大を意味していると、どうして信じられないでしょうか。



[1] 本節に出てくる初等教育の用語の適切な日本語訳を、訳者(朱門)は知らない。