ですから同じように、諸々の理性的な食べ物――私は神的な諸々の巻物の食べ物のことを言っています――においても、()文書が理解するにはより難しく、あるいはより不明瞭に見えても、あるいは、始めたばかりの「幼子[1]」や、「いっそう弱くて[2]」すべての事柄を理解するにはあまり力ない人には使うことができず、何らかの利益や救いの幾らかを自分にもたらしてくれるとは思わない諸々の事柄を、()文書が含んでいるように見えても、()文書は直ちに非難されたり否定されるべきではありません。むしろ次のように考えるべきです:すなわち、蛇も羊も人間も、あるいは草も、すべてのものは神の創造物であり、その多様性は、創造主の賛美と栄光を目差しているのと同じように――なぜならそれら(の生き物)は、各々のために適切で時宜を得た食べ物を提供したり、受け取ったりするために創造されたからです――、神の諸々の言葉であるそれらすべての事柄の中にも、諸々の魂の把握力に応じた多様な食べ物があり、各自(の魂)は、自分にとって健康的で有効であると下す判断に応じて、それらのすべての事柄を摂取します。



[1] Cf.He.5,13.

[2] Cf.Rm.14,2.