50 他方、私としましては、説明の他方の部分――それは、それらの事柄から推論され、観想されるべきです――を、誰か賢明な人たちに残します[1]。なぜなら、「知恵者たちには、諸々の機会を与えた[2]」ことで充分だからです。また、聞き手の人たちの思考がまったく無為で、愚鈍なままであるも有益ではありません。ですから、彼らからの寄与によっても、その説明は判断されるべきです。いやむしろ、何かいっそう明敏でいっそ神的な事柄が観想されるべきです。なぜなら、「神は測りをもって霊を与えず[3]」、むしろ「主は、霊であって[4]」、それゆえ「望むところに息吹く[5]」からです。そして私たちは、あなた方にも(霊が)息吹き、それによってあなた方が、それらの事柄のいっそう善くいっそう高度な諸々の事柄を主の諸々の言葉の中に理解するように願っています――私たちの凡庸さに応じて私たちが叙述した諸々の事柄を通して、あなた方が旅路を歩みつつ。そして、そのより崇高でより卓越した道の中で、私たちも、あなた方と一緒に前進することができますように――「道と真理と命[6]」である主イエス・キリストご自身が私たちを導き出して下さることによって。そのようにして私たちは、最終的に、父の許に到達するでしょう。そのとき彼は、「み国を父なる神に渡し、一切の支配と権能を彼に従わせているでしょう[7]」。「彼に、栄光と支配が代々にありますように。アーメン[8]」。



[1] 既述のように、説明の仕方には、いわば倫理的解釈と形而上学的解釈の二つがある。

[2] Cf.Pr.9,9.

[3] Cf.Jn.3,34.

[4] Cf.2Co.3,17.

[5] Jn.3,8.

[6] Jn.14,6.

[7] Cf.1Co.15,24.

[8] 1P.4,11.