さて、私たちが以上の事柄を序言の中で前置きしたのは、あなた方の諸々の魂を奮い立たせるためです。なぜなら、(私たちの)諸々の手の中には、理解するには難しく、朗読するには余計に見える朗読箇所が含まれているからです。しかし私たちは、聖霊の諸々の文字について、たとえある人々には諸々の不明瞭な事柄が見られても、それらの文字の中に何か無駄なことや余計なことがあると言うことはできません。むしろ私たちは、次のことを行うべきです:すなわち、私たちの精神の諸々の目を、それらの事柄が書かれることをお命じになった方に向けて、それらの事柄の理解をその方から求めるべきです――私たちの魂の中に弱さがあっても、「そのすべての病弱さを癒やしてくださる[1]」方が私たちを癒やしてくださるために、また、たとえ私たちが子供じみた理解しか持たなくても、幼子たちを守って下さる主が私たちの側にいて、私たちを育て、「大人の背丈に[2]」導いてくださるために。実際、私たちが病弱から健康に到達することができること、そして子供じみた諸々の事柄から大人の年齢へと到達することができること、それらはいずれも、私たちにかかっています。ですから、それらの事柄を神から求めるのは私たちにかかっています。しかし、「求める人たちに与えることと、叩く人阿智にあけることは神に属しています[3]」。序言は、以上で十分でしょう。



[1] Cf.Ps.102,3.

[2] Cf.Ep.4,13.

[3] Cf.Mt.7,7.