では今、私たちは、朗読された箇所それ自体の冒頭に進み、主が助けてくださることによって、それらの事柄の意味をも――たとえ明瞭にではなくとも、概略的に――取り集めて説明できるようにしましょう。(聖文書は)次のように言っています:「イスラエルの子らがエジプトの地から、モーセとアロンの手の中で、彼らの力とともに脱出してからの彼らの諸々の宿営地は次の通りである。そしてモーセは、彼らの諸々の進歩と彼らの諸々の宿営地を主の言葉を通して書き記した[1]」云々と。あなた方は、モーセがそれらの事柄を主の言葉を通して書き記したことを聞きました。そして、なぜ主は、それらの事柄が書き記されることをお望みになったのでしょうか。イスラエルの子らの作った諸々の宿営地のその文書が私たちに何らかの利益をもたらすためでしょうか、それとも何の利益もないのでしょうか。そして、誰が敢えて次のように言うでしょうか:主の言葉を通して書き記される諸々の事柄は、何の利益も持たず、何の救いももたらさない;むしろそれらの事柄は、行われた事柄だけを物語っており、そもそも、過去に起こった事柄の報告から私たちに来るものは何もない、と。そのような判断は、不敬虔であり、カトリックの信仰とは無縁です。そのような判断は、私たち主イエス・キリストの父なる神が律法と諸々の福音との唯一の知恵者であることを否定する人たちの判断です。では、それらの宿営地から、敬虔な知性は何を理解すべきかを、概略的に、時間が許容する限りで、私たちは取り扱うことを試みましょう。



[1] Cf.Nb.33,1-2.