民数記第28講話

聖なる地とその諸々の境界線と諸々の領域の描写

 

 諸々の数[1]の書物の中の最後の歴史が述べられました。その中で主はモーセに、イスラエルの子らに数々の掟を与えることを命じています[2]。それは、彼らが「聖なる土地に入って」、その嗣業地を獲得するとき、その中の諸々の領地のどのような諸々の境界を彼らが守らなければならないかを知るようになるためです。そしてそれらの後で、(境界を)描く主ご自身に、次のことが言われています:「アフリカの方では」、すなわち、西の方では、然々の場所の境界が守られなければならない。そして、東の方では、然々の場所の(境界が守られなければならない)と。そして、そのようにして、天の四つの方面にわたって、主はみずから、或る諸々の名前――神の民は、この地的なユダヤの中でそれらを守らなければなりません――を指定しました。ですから、聞き手の人たちの中で、それらの事柄においていっそう単純な人は、次のように言うでしょう:それらの事柄は、文字に即しても必要で有益だと見られ得る。なぜなら何人も、主の掟によって定められた諸々の境界を乗り越えるべきではなく、また、一方の部族が他方の部族の諸々の領地を敢えて侵害してはならないからだ、と。しかしながら、それらの土地の中で、侵略すべき他人の領地ばかりでなく、(それを)所有するためのいかなる能力も、ユダヤ人たち残っていない場合には、私たちは何をすべきでしょうか。実際、彼らは、その土地からの避難者ならび追放者として流浪しています。そしていま彼らは、神的な律法が定めた諸々の領地ではなく、勝利者たちの諸々の法が命じた諸々の領地を所有しています。私は言いたいです――教会の中でそれらの事柄を読む私たちは、何をすべきでしょうか。もしも私たちが、ユダヤ人たちの考えに即して読むなら、それらの事柄は、私たちにとって全く余計で、空しいものに見えるでしょう。



[1] これは、民数記である。

[2] Cf.Nb.34,2.