しかし、知恵について、「あなたは、狩人のように知恵の後を追って脱出しなさい[1]」と書かれていることを読む私は、「その後を追って脱出する」ことを望みます。そして私は、身体的な諸々の事柄の中にそれを見出しませんから、私は、その諸々の足跡を追跡し、それがどこに行くかを探求し、さらにそれが、私の諸々の理解をどのような諸々の寝床に誘うのかを見ることを希求します。実際、私は次のことを考えています:もしも私がそれを熱心に追求し、その諸々の道を探求することができたなら、それは、(聖なる)諸々の文書から、何らかの幾つかの手掛かりを私に与えてくれるでしょう――それらの箇所についても私たちが、どのように説明すべきか(という手掛かりを)。勿論そのことは、パウロが神秘の中で次のように語っていることを私たちが信じていればの話ですが:すなわち、律法を通して仕える人たちは、「天的な諸々の事柄の影と像に仕えている[2]」と。やはり彼の判断によれば、律法――その一部は、私たちが諸々の手の中に持っているこの朗読です――が、「将来の諸々の善き事柄の影を持っている[3]」とすれば、必然的に、地的な諸々の事柄について律法の中に記述されているすべての事柄は、「天的な諸々の善き事柄の影」であること、そして、ユダヤの中で「聖なる地[4]」と「善き地[5]」と呼ばれている一切の嗣業地は、「天的な諸々の善き事柄の像」であることが帰結するように見えます。そして、私たちが言ったように、諸々の地の中で諸々の善き事柄として言及されている事柄は、それらの(天的な善き事柄の)「影と像」を保持しているにちがいありません。



[1] Cf.Si.4,22.

[2] He.8,8.

[3] He.10,1.

[4] Cf.Ex.3,8.

[5] Cf.Dt.8,7.