ですから、神の諸々のみ言葉によって、神的な律法の中に、ユダヤの土地が記述されています。そして、それらの事柄は、「諸々の天的な事柄の像[1]」に関係づけられねばならないと言われています。ところで、諸々の天の中には明らかに、エルサレムという町とシオン山が存在することが、使徒によって言明されています。したがってその当然の帰結として、地的なエルサレムの周囲にさらに他の諸々の町と諸々の村と様々な地域が置かれているのと同じように、あの天的なエルサレムも、諸々の地的な事柄の像に即して、その周囲に、他も諸々の町と諸々の村と様々な地域を持っているはずです。そして、それらの中に、神の民と真のイスラエルは、真のヨシュアを通して――あのヌンの子ヨシュアは彼の像を担っていました――いつの時にか配置され、籤引きの配分によって、すなわち、諸々の功績の調査によって嗣業地を獲得するに違いありません[2]。ですから、主がいま、土地の配分において、たとえばある部族の諸々の境界線はあれらであり、他の部族の(境界線は)それらであると言うとすれば、それはたぶん、諸々の天の国の嗣業地を獲得することになっている人たちの諸々の功績が異なっているからでしょう。またそれ故に、それらの部族の中で、諸々の境界線のそのような区別が注意深くなされることが命じられていますが、それは、各人における諸々の功績のこれらの違いが注目されべきだということを、私たちが知るようになるためです。たとえば、自分の信仰の故にイスラエルの子らの間にいるのが相応しいとされますが、生活の怠惰と諸々の振る舞いの無精の故に「ルベン族あるいはガド族あるいはマナセの半部族[3]」の中に算入されて、ヨルダン川の内側でなく、その外側に嗣業地の籤を引かなければならないような仕方で怠惰な生活をしてきた人たちがいます。他方、ただ神だけが知っている諸々の理拠に従って、ユダ族の中にあるいはベニヤミン族の中に――その(部族の)中にエルサレム自体と神の神殿と祭壇があります――参入されなければならないほどに、生活の改善と意図の回心によって自分を改めた人がいます。そして他の人は別の(部族の)中に、また、別の人は他の(部族の)中に算入される人違います。そして、そのような仕方で、いま民数記の中に書き記されている諸々の事柄は、諸々の天における将来の籤引き――もちろんその籤引きは、私たちが述べたように、私たちの救い主にして主なるイエスを通して諸々の天の国の嗣業地を(やがて)獲得する人たちの籤引きです[4]――のある種の素描であるに違いありません。



[1] Cf.He.8,5.

[2] Cf.De Princ.IV,3,8; Hom.Jr.XXIII,4.

[3] Nb.32,33.

[4] Cf.Hom.Jos.XXIII;籤引きは神の意思の表れである。