そこでは、ここに素描された祭司たちの諸々の特権も、注意深く守られるだろうと、私は信じています。彼らには、諸々の町に隣接する諸々の場所と、諸々の城壁自体に接続する諸々の場所が、イスラエルの子らによって分割されることが命令されています[1]。そこには、ここにその姿が記述されているところのあの諸々の町――つまり(聖文書が)、「避難の諸々の町[2]」と名づけている諸々の町――も存在するだろうと、私は信じています。ただし、それら(の町)には、すべての殺人者たちが逃げ込むのではなく、それと知らずに殺人を犯した人たちが逃げ込みます。実際、おそらくある諸々の罪は、もしも私たちが意図と意志によって犯すなら、私たちを殺人者にするものでしょう。そして、私たちがそれと知らずに犯す他の諸々の罪も存在します。その場合には、主の定めによって、ある場所が私たちのために裁定され準備されると、私は信じています。私たちはその場所に、定められた時まで住まなければなりません――もしも私たちが、諸々の意図的な罪を犯したのでなく、意思によって犯された諸々の罪からは浄く無縁であることが見出されるならば。そしてそれ故に、避難のために或る諸々の町が分離されます。

或る人たちには、一つひとつの諸々の天体の位置と集合が、天の中の町と言われたり考えられたりすることができると思われるかもしれません。私としては、そのことを断定する勇気はありません。実際、私が分かっていることは次のことです:すなわち、一切の被造物は、(それを)服従した方の故に、希望の内に服従させられていますが[3]、神の子らの贖いにおける自由を期待しており、疑いもなくより燦然と輝きより崇高なあるものを待ち望んでいると[4]



[1] Nb.35,2.

[2] Nb.35,2.

[3] Nb.35,11.

[4] Cf.Rm.8,21.