ですからもしも、私たちが言ったように、「律法が来たるべき諸々の善き事柄の影を持ち、律法に仕える人たちが「諸々の天的な事柄の雛形と影に仕えている」なら[1]、そして、諸々の事柄の観想が、「今は鏡を通して謎の中で」持たれていますが、「しかしその時には、顔と顔とを合わせて」持たれることになるとすれば[2]、私は次のことも信じます:すなわち、私たちは今、諸々の天の中の暮らしを、鏡を通して謎の中で持っていると言われますが、しかしそのときには、相応しいと認められた人たちは、顔と顔を合わせて、諸々の天における暮らしを持つだろうと[3]。ですから、(一連の)諸々の事柄の首尾一貫性と諸々の約束の信仰とを通して、私たちが諸々の地から天に移送されねばならないとすれば、私は次のことを信じます:すなわち、諸々の天的な場所そのものの中に、私たちの主なるイエスは、他ならぬ諸々の功績の籤引きによって、それぞれの人を天のあれこれの部分と住まいの中に配置するはずであると。



[1] Cf.He.8,5.

[2] Cf.1Co.13,12.

[3] Cf.Ph.3,20.