しかしながら、諸々の地の中には、大きな違いがあります。たとえば、肥沃で豊穣ですべての諸々の善きものに溢れる諸々の場所――そこには気候の穏やかさと人間たちの教育と諸々の自由な制度がないことはありません――の中に住むこと、そして、不毛で諸々の事物の欠乏によって荒廃し、灼熱(の太陽)によって焼かれ、あるいは、寒さと氷結によって凍てついた諸々の場所の中に(住むこと)、あるいは、いかなる諸々の法律もなく、非人間的で残忍な野蛮さがある諸々の場所、あるいは、戦争が絶え間なく続き、平和など決して訪れない諸々の場所の中に(住むことは)、大違いです。そして、それらの事柄は、神の或る隠れた経綸と彼の裁きの正義によって、一人ひとりに裁定されます。それと同じように、あの諸々の場所の中にも、何かしらそのようなものが存在するでしょう。それゆえ、諸々の地の中の「諸々の天的な事柄の像[1]」は、いかなる点においてもまったく空虚なものとは見なされなくなります。ですから、私たちが言いましたように、あちらにも、「避難の諸々の町[2]」のようなものが存在するでしょうし、ルベン族の嗣業地である「ベツェル」は「荒れ野の中の町」であると言われているように[3]、もう一つの「荒れ野の中の町」が(あちらに)存在するでしょう。



[1] Cf.He.8,5.

[2] Nb.35,2.

[3] Cf.Jos.20,8.