しかし、次の諸々の事柄も、やはり首尾一貫して、把握されねばなりません:すなわち、「神はアダムの子らを分散するとき、諸国民の諸々の境を、神のみ使いたちの数に従って」、あるいは――他の諸々の写本の中に私たちが読むように――世界の元において「イスラエルの子らの数に従って[1]」定めた。そして、同じように、あのアダムの子らは、彼らの諸々の功績やアダム自身の観想が要求したように、分散されました。そうだとすれば、私たちは、何が将来に起きると言うべきでしょうか:すなわち、「最後のダム――彼は、生きている魂にではなく、生かす霊に成りました[2]――の子らを、神的な采配が、世界の元においてでなく世界の終わりにおいて、分散させるのでなく配置し始めるとき;しかも、「アダムの中で、全員、死んだ」彼らのようにでなく、「キリストにおいて、全員、生かされた[3]」者として(配置始めるとき)。疑いもなく、何らかの分割と分配があるでしょう。その分配は、配置される者たちの諸々の功績に応じてのみならず、「最後のアダム」――その方の中で、「すべての者が生かされる[4]」と言われています――の観想に応じて考量されるべきものでしょう。



[1] Dt.32,8.

[2] Cf.1Co.15,45.

[3] Cf.1Co.15,22.

[4] 1Co.15,22.