しかし、私たちの内の誰が、そのような分配と、あの天的な嗣業地の籤引きの許に来るのに相応しい者と見なされるでしょうか。その籤がエルサレムに当たり、神の神殿にいる幸いな人、いやむしろ彼自身が「神の神殿[1]」になるところの幸いな人は誰でしょうか。いったい誰が、神的な祭壇が諸々の絶えざる火によって焚かれる諸々の祭日を祝うほど幸いでしょうか。いったい誰が、自分の生け贄と甘美の香を、救い主が語る火の上に置くほど幸いでしょうか。救い主は、その火について、「私は地の中に火を置くために来た[2]」と言っていました。いったい誰が、「自分の神なる主が選んだ場所」の中で[3]、常にパスカを祝うほど幸いでしょうか;五旬祭の日と贖罪の祭りと諸々の幕屋の荘厳祭を、もはや影を通してでなく、諸事物の見目麗しさそのものと真理とを通して執行するほど(幸いな人は誰でしょうか)



[1] Cf.1Co.3,16.

[2] Lc.12,49.

[3] Cf.Dt.12,26.