民数記第三講話

レビ人と初子

「私は、母胎を開くすべての初子の代わりに、イスラエルの子らの間からレビ人を取った[1]」云々と書かれていることについて。

 マナにつて次のように書かれています。あの(エジプトを脱出した)時、もしも人が神の定めた通りに、それを摂取すれば、人はそれよって養われる。しかし、神の掟に反し、神的に定められた作法に逆らって、それを摂取しようとしても、人は命に不可欠な食物としてそれを味わうことはできず、そこから「諸々の蛆虫が湧く[2]」と。このように、一つの同じ種類のマナが、ある人々にとっては諸々の蛆虫と腐敗を生み出し、他の人々には命に不可欠で健全な食べ物をもたらすこともありました。したがって神のみ言葉も私たちのマナです。神の言葉は、私たちの許にある神の言葉は、他の人々にとっては救いとなり、他の人々のとっては罰になります[3]。このようなわけで、「神の唯一のみ言葉[4]」である主なる救い主ご自身は、次のように言ったのだと、私は思います。「私は、裁きのために、この世に来た。こうして見えなかった人は見えるようになり、見えない人は見えるようになる[5]」と。幾人かの人たちにとっては、神のみ言葉を悪意をもって聞いたり、偽善の念をもって聞いたりするよりは、それをまたく聞かない方がはるかにましです。しかし、私たちは、悪人たちに比べてもっと善いことを申しましょう。本当により善く、本当により正しくより完全なことは、神のみ言葉を聞く人が、単純な善い心で聞き、よく準備された正しい心で聞くことです。そうすれば、その人は、いわば善い地にまかれた種のように、成長し実を結ぶでしょう[6]

 



[1] Nb.3,12.

[2] Ex.16,20.

[3] 翻訳者(朱門)は、Verbum Deiを「神のみ言葉」、sermo Deiを「神の言葉」と訳し分けている。翻訳者ルフィヌスのラテン語の用語法では、前者は、人格化されたロゴスすなわちキリストであり、後者は、書かれた(話された)言葉をさすが、ギリシア語では同じ「ロゴス」である。

[4] Cf.1P.1,23.

[5] Jn.9,39.

[6] Cf.Lc.8,15.