12 (聖書は)次のように言っています。「レビ人らは、私のものとなるだろう。なぜなら、すべての初子は私のものだからである。私がエジプトの地ですべての初子を打った日から、私は、すべての初子を私のために聖別した[1]」。これらの事柄に関して歴史がどのようなことを含んでいるか、すなわちエジプト人たちの初子らがどのようにして打たれたか、他方で、イスラエルの民がエジプトからどのよういして導き出されたかは、知られています。この箇所で示されているのは、次のことです。すなわち、イスラエルの初子たちが聖別されたのは、エジプト人たちの初子らが打たれる前ではなかったことです。それはあったかも、後者の人たちの滅びと死が、前者の人たちの聖別の原因をなしているかのようです。ですからここでも、次のことが理解されねばなりません。エジプト人たち、すなわち敵対する霊的存在者たちの内にも、ある種の初子らが、いわば邪悪の選良者、悪霊どもの第一人者として存在するということです。彼らが(先に)打たれ滅ぼされなかったなら、イスラエル人たちの初子らが聖別を受けることは決してできないでしょう。では、エジプト人たちの初子たち、すなわち悪霊どもの「諸々の支配の霊と権威の霊[2]」を打ったのは誰でしょうか。それは、「すべての被造物の初子[3]」であり、「敵対する諸々の支配の霊と権威の霊をさらし者にし、十字架の上で彼らに勝利した[4]」私たちの主イエス・キリストではないでしょうか。確かに、彼が彼らを打ち、勝利しなかったなら、初子の聖別は、私たちの許には決して来ることができなかったでしょう。しかし彼は、私たちに初子たちの諸々の聖別を施すために、先ずご自身が、「諸々の死者の中から最初に生れた初子」となりました。それは、「すべての者の中で第一の地位を占めるためであり[5]」、彼の復活を信じる私たちを初子として取り、初子たちの位階[秩序]の中に加えるためです。ただしそのためには、私たちが、私たちの主イエス・キリストご自身の憐れみに助けられながら、諸々の祝福の恵みを最後まで堅く保っていなければなりません。私たちの主イエス・キリストに、「栄光と力が代々にありますように。アーメン[6]」。



[1] Nb.3,12-13.

[2] Col.2,15.

[3] Col.1,15.

[4] Col.2,15.

[5] Col.1,18.

[6] 1P.4,11.

 

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