私は、以上のことを、単純で信心深い精神をもたずに(み言葉を)聞きに集ってくる幾人かの人たちのために、前置きとして述べました。私は、ある洗礼志願者たちについて言っています。彼らの中には、すでに洗礼を受けた他人たちの幾人かもいます。「実際、イスラエルに由来する人たちが皆、イスラエル人ということにはなりません[1]」。水の洗礼を受けた人たちが皆、聖霊による洗礼を受けたのではありません。逆に、洗礼志願者に数えいれられている人たちが皆、聖霊とは無縁で、それを欠いているというわけではありません。実際、聖書の中には、洗礼志願者たちの幾人かは、聖霊に相応しい状態になっているのに、他の人たちは、洗礼を受けたのに、聖霊の恵みに相応しくなっていないのを、私は見出します。コルネリウスは、洗礼志願者でした。しかし彼は、水に至る前に、聖霊を受けるに相応しくなりました[2]。シモンは、洗礼を受けました。しかし彼は、偽善の念をもって恵みに近づいたため、聖霊の恵みから斥けられました[3]。今でも洗礼志願者の人たちの中に、コルネリウスのような人たちがいることを、あなたは疑ってほしくないと、私は望んでいます。彼らにはおそらく、「あなたの憐れみと諸々の祈りは、神に昇った[4]」という言葉が語られるでしょう。逆に、信者の人たちの中に、シモンのような人たちがいることを疑わないでください[5]。彼らに対しては、次の言葉が大胆に言われるべきです。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵よ[6]」と。私はこのことを、私自身の矯正のために語っています。聞き手の皆さんの矯正のためでばかりではありません[7]。なぜなら私も、神のみ言葉を聞く人たちの一人ですから。



[1] Rm.9,6.

[2] Cf.Ac.10,47.

[3] Cf.Ac.8,13-23.

[4] Ac.10,4.

[5] オリゲネスは、教会を美化しない。

[6] Ac.13,10.

[7] Cf.Hom.Gn.XVI,5 ( SC 7, 389); Hom.Nb.XI,5 (SC 29, 221).

 

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