一体これらのことは、神の律法の中に無益に書き込まれたと信じるべきでしょうか。そのことは、私たちに次のことを教えているのではないでしょうか。すなわち、神の許では、身体的な誕生において先行する者たちが初子と見なされるのではなく、精神の意図をご覧になった神ご自身が、初子の地位[秩序]に加えられるべきであると明示した者たちが初子と見なされるということです[1]。実際、神の許では、後に生れたヤコブが、初子として明示され、神の配慮によって生じた父親の盲目のゆえに長子の諸々の祝福を得ました[2]。神には明らかな心の意図によって、「彼らがこの世に生れる前に、あるいは善悪の何がしかを為す前に[3]」、主は彼らについて宣言されました。「私は、ヤコブを愛し、エサウを憎んだ[4]」と。したがってレビの子らは、肉に従って初子なのではなく、初子と見なされました。ですから、初子として生れるよりも、初子と見なされる方がいくらか偉大なことです。

 



[1] これは、霊魂の先在を前提にした発言である。

[2] Cf.Gn.27,1s.

[3] cf.Rm.9,11.

[4] Ml.1,2-3.

 

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