11 悪魔は、この言葉は、救い主について理解されねばならないと考えました。悪魔は、悪意によって視力を失い、諸々の神秘的な発言を理解しませんでした。実際、私の救い主は、「その足が石に躓かないようにするために[1]」、み使いたちを必要とはしませんでした。悪魔は、この言葉を救い主に関して引用し、聖書を中傷しています。神はご自分の民のために「み使いたちに命じて、その(民の)足が石に躓かないようにされた」という言葉は、救い主に関してではなく、すべての聖なる人に関してです[2]。そればかりか、この詩篇にかかれているすべての事柄は、救い主によりも、むしろ、すべての義人たちに当てはまります。実際、「主が、破滅と白昼の悪霊とから[3]」解放するのは、救い主ではなく――そのような理解が私たちにあってはなりません――、すべての義人です。なぜなら、悪霊どもに圧倒されないようにし、「諸々の闇の中を飛んでくる矢[4]」によって心が貫かれないようにするために、神のみ使いたちの助けを必要としているのは義人たちだからです。

 パウロは、まさにみ使いたちによって、同じ神秘の下で、ある人たちは「諸々の雲の中に」で担がれるに違いないと断言しています。彼は言います。「しかし、生きている私たち、残された私たちは、彼とともに雲の中に連れ去られ、空中でキリストにまみえるでしょう[5]」。ですから、すっかり清められ、諸々の過失(の重荷)から軽くなった人たちは、み使いたちによって連れ去れれます。しかし、まだ残っている諸々の過失が重くのしかかっている人たちは、(み使いたちによって)担がれます[6]



[1] Ps.90,11-12.

[2] オリゲネスのこの詩篇の解釈は、同詩篇を引用する福音記者(編集者)の解釈とは明らかに異なる。

[3] Cf.Ps.90,6.

[4] Cf.Ps.90,5.

[5] 1Th.4,15-17.

[6] 「完成の域に達した者」と、「その途上にある者」とが区別されている。

 

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