12 ともあれ、「幕屋の諸々の柱と数々の横木[1]」、聖書に言及されているその他の品々は、誰かによって担がれます。しかし、それらは、イスラエルの人たちによって担がれるのではなく、私たちが(先ほど)通りすがりに簡単に触れたように思われる意味でレビ人たちによって担がれます[2]――私たちはその際、聴き手の人たちの考察にこの意味を委ねました。それは、聴き手の人たちのなかで、より大きな望みに燃え立った人がいるなら、その人が、自分のために知識の光を灯し、それらの事柄に関する数々のより偉大な事柄に、より洞察力のある眼差を向けるようにするためです。しかし私たちに対しては、主は次のことを許してくださいますように。私たちが、そのような働き手たち[3]に担がれ支えられ、「諸々の闇の中を飛んでくる矢[4]」から、「破滅と白昼の悪霊とから[5]」解放され護られつつ、聖なる人たちの約束の場所に、私たちの主キリストによってたどり着くまで、「私たちの足が石に躓くことがないように[6]」。主キリストに、「誉れと力が代々にありますように。アーメン[7]」。



[1] Cf.Nb.4,31s.

[2] Cf.Hom.Nb.V,5(拙訳).

[3] 直前に言及された、「知識の光」(lumen scientiae)を灯し、諸神秘の探求に励む人たちである。

[4] Cf.Ps.90,5.

[5] Cf.Ps.90,6.

[6] Ps.90,11-12.

[7] Cf.1P.4,11.

 

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