もしもあなたが、歴史の次元[秩序]が何を含んでいるかを理解したなら、さあ、神秘の輝きへとお昇りください。そして、もしもあなたの精神の眼が清ければ、霊的律法の光をご覧ください[1]。神に奉仕する者たちの誰かが、諸々の神的なものを捉えるのに相応しく、また他の人たちには観ることができない諸々の神秘的なものを観るのに相応しいなら、その人は、アロンないしはアロンの子らであると理解されます。なぜなら彼らは、他の似もには近づくことが許されない諸々の事柄へと入ることができるからです。ですから、もしも誰かがそのような人であれば、その人にだけ「契約の箱[2]」が、覆いのを除かれ開示されます。その人は、「マナの入った壷」を見ます。その人は、「宥めの供え物」を考察し理解します。その人は、二対の「ケルビム」を見、「聖なる祭壇」と「光の燭台」、「香壇」を見ます[3]。彼は、それらの事柄を考察し、霊的に理解します。彼とは、すなわち、神の言葉と知恵の諸々の神秘とに仕え、諸々の聖なる事柄の中でただ神のためにのみ時間を割く人です。それらの事柄が開示され、霊的に見られるべきものとして委ねられた人は、次のことをよく知っています。すなわちそれらの事柄を、開示することが許されていない人たちに開示したり知らせたりすることは無難なことではなく、むしろそれら一つひとつを覆い隠さねばならず、まだ(観る)能力のない人たちには、隠されたままで、肩で担ぐべきもの、首に掛けるべきものとして[4]、渡されるということをよく知っています。実際、諸々の神秘的な言葉によって教育され、完成の域に達した教師たちが、諸々の業を人々に命じ、人々が動き命じられた諸々の業を果たしはするが、行われている諸々の業の理拠を理解しないなら、「諸々の聖なる物の諸々の聖なる物」が覆いを掛けられ隠された状態で肩で担がれるということ以外の何が行われるのでしょうか。



[1] Si intellexisti quid historiae ordo contineat, adscende nunc ad splendorem mysterii et spiritalis legis lumen, si purus tibi est mentis oculus, contuere.

[2] Cf.Ex.25,10-30 et He.9,4s.

[3] Cf.He.9,4-5.

[4] Cf.Nb.7,9.

 

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