いま述べられた事柄を、あまたがなお一層明瞭に把握できるよう、聖書の諸巻から幾つかの例を引いて、あなたにご説明しましょう。モーセは、疑いもなく、真の割礼が何であったかを理解していました[1]。真の過越(パスカ)が何であるかを理解していました[2]。彼は、真の新月が何であるか、真の安息日が何であるかを知っていました[3]。彼は、これらすべてのことを霊において理解していましたが、言葉においては、諸々の身体的な事柄の形象と輪郭によって覆い隠していました。彼は、「屠られるべき真の過越はキリストである[4]」と知っていましたが、身体的な羊が過越において屠らねばならないと命じました[5]。彼は、「祭日は、誠実さと真実との種なしパンで祝われねばならない[6]」と知っていましたが、小麦粉の種なしパンで(祝われねばならない)と定めました[7]。ですから「諸々の聖なる物の諸々の聖なる物」も、そのような類いのものでした。モーセは、それらを他の人たちに渡して(肩で)担ぐように命じるとき、すなわち、諸々の事物と業とによって満たすように命じるとき、それらを覆い隠された状態で、公の話題にしました。諸々の肩が諸々の業のしるしを伴っていることを、私たちは聖書の多くの個所でしばしば指摘しました[8]



[1] Cf.Rm.2,26-29.

[2] Intellegabat quod esset vera pascha; cf.1Co.5,7.

[3] Cf.Col.2,16-17.

[4] 1Co.5,7.

[5] Cf.Ex.12,3.

[6] 1Co.5,8.

[7] Cf.Ex.12,8.

[8] Cf.Hom.Nb.IV,10(既訳).

 

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