しかも、レビ人たち自身の間にあっても、ちょうど「二十五歳から五十歳まで[1]」でなければ、それらの業に呼ばれることはありません。この「二十五」および「五十」という数自体にも、神秘がないわけではありません[2]。実際、「二十五」という数の中に、五つの感覚の完成が明示されています。なぜなら五の五倍が考えられているからである。このことは、神秘の中で「諸々の業の諸々の業」を履行するように呼ばれた人は、諸感覚を自乗し浄化することによって、あらゆる点で完成されていることが判明した人であることを示しています。他方、「五十」という数は、免罪と免償の秘蹟[3]を含むことを、私たちは、聖書の多くの箇所で折に触れて十分に明らかにしました。実際、五十年目は、ヘブライ人たちの間でヨベルの年と言われ、諸々の財産の返却や隷属や負債の赦免が行われます[4]。また、過越祭の後の五十日目は、律法における祭日として伝えられています[5]。救い主も、福音の中で、免罪と免償の例え話を解き明かすとき、負債者たちを取り上げ、「一人は五十デナリウス、もう一人は五百デナリウスの負債があった[6]」と言っています。ところで、「五十」と「五百」は、同類の数です。なぜなら、「五十」の十倍が五百だからです。しかも、この数は、別の点から神聖なものとなります。なぜなら、七の七倍に、その完成として数の一が付け加えられるなら、五十日が作られるからです。同じように、七十の七倍に、その成就として十が付け加えられるなら、五百日が作られます[7]



[1] Cf.Nb.4,47.

[2] Cf.Hom.Nb.XXII,1; XXV,4; Hom.Gn.II,5; XVI,6; Hom.Lv.XIII,4; Hom.Ex.IX,3. 同様の解釈は、

[3] remissionis et indulgentiae sacramentum; 彼の解釈は、独自のものではない。同様の解釈は、アレクサンドリアのクレメンスにも見れらる(Strom.VI,87,2 :GCS Clem.Alex. II, 475)。数字の五重に特別の意味を見出そうとする試みは、すでにフィロンにも見出される:Mut.nom 228; Vit.Mos.II,80; Spec.leg.II,176-177; Congr.109.

[4] cf.Lv.25,10.

[5] cf.Lc.7,41.

[6] cf.Lv.25,10.

[7] 同様の計算は、第25講話4(後出)にも見出される。

 

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