「五十」と「五百」の数の諸々の神秘を、さらに多く集めるのが望ましいのであれば、それらは、私たちが今手にしているこの『民数記』そのものにあります。この本では、諸々の敵からの戦利品の中から、ある人たちは、神への奉納物として「五十」の一を納めました。彼らは、戦闘には進んでいません。他の人たちは、「五百」分の一を納めました[1]。ここでも、「五十」と「五百」があるのは、無駄なことではありません。『創世記』でも、神は、ソロモンの人たちの恩赦について、彼らは赦しに値しうるかを取り上げたとき、太祖アブラハムは、この種の神秘の数々に気づき、ソロモンの人たちの恩赦のために、「五十」という数から主に嘆願を始め、次のように言っています。「もしもその町に、五十人(の正しい人)が見出されたなら、あなたは、その五十人のゆえに、その町を救わないのですか[2]」と。



[1] Cf.Nb.31,28-30.

[2] Gn.18,24.

 

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