そこで私たちは、証の幕屋は、神の契約の許に数えられるすべての聖人であると理解しましょう。そして、この幕屋の中には、諸々の功績においてより崇高で、恵みにおいてより卓越した人たちが存在し、彼らの内のある者たちは、「燭台[1]」と言われます。これらの人たちは、おそらく、神に近づく人たちを照らす使徒たち自身でしょう。しかし、この神の幕屋の中に他の人たちがいて、彼らが、(幕屋に)入ってくるすべての人たちに知識と教えとの光を示すなら、彼らは皆、神秘的な「燭台」と命名されるべきでしょう。他の人たちは、「神聖な祭壇」でしょう。なぜなら彼らは、神の諸々のパンを持っており、「義に餓え渇く[2]」諸々の魂に食べさせ元気を回復させるからです。他の人たちは、「香壇」でしょう。彼らは、神の「神殿の中で、数々の祈りと断食の内に、日夜を過ごし[3]」、自分自身のためのみならず、全世界の人々のために祈っています。他方、神が諸々の密やかな神秘を託し、ご自分の摂理に属する諸々の隠された裁きに関する諸々の秘密を委ねた人々は、神の「契約の箱[4]」と呼ばれるでしょう。さらに、全き信頼をもって、数々の祈りの犠牲と、数々の嘆願の生け贄によって、神を人々と和解させ、人々の諸々の過失のゆえに執り成す人々は、「宥めの供え物[5]」と名づけられるにちがいありません。また、多くの知識と、神の認識における豊かな富とを獲得した人々は、「ケルビム」と理解することができます。実際、「ケルビム」は、私たちの言葉で、多くの知識と解釈されます[6]



[1] Cf.Nb.4,9; He.9,2.

[2] Cf.Nb.4,7; He.9,2.

[3] Cf.Mt.5,6.

[4] Cf,Nb.4,11; He.9,4.

[5] Cf,Lv.2,2.

[6] At qui meruerunt multitudinem scientiae et abundantes divitias in agnitione Dei, Cherubim(cf.Nb.4,5; He.9,4) intelligi possunt; Cherubim namque in lingua nostra multitudo scientiae interpretatur. Cf.Philon Alex.Vit.Moys. II, 97 (omnia opera 22, 237).

 

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