11 私としては、常に表明しているわけではありませんが、次のように考えています。すなわち、人々に共通の少なからざる行いには、罪は見出されないけれども、聖霊が居合わせると私たちが考える諸々の事柄に相応しいとは思われないものがものが存在するというとことです。一例を申しますと、合法的な婚姻には、たしかに罪はありません。しかし、婚姻にまつわる諸々の行いが為される時には、聖霊の臨在は与えられません――子づくりの務めに服す人が預言者であると思われたとしても[1]。人間の力だけで十分で、他のものを必要とせず、聖霊の臨在も相応しくない諸々の行いは他にもたくさん存在します[2]  

 私たちは、いわば脇道に逸れて、以上のことに話を広げました。私たちが明らかにしたかったことは次のことだけです。すなわち、主なる私の救い主イエスの上にのみ神の霊が常に留まり続けたこと、しかし他のすべての聖なる人たちの内では、七十人の長老たちにおけるのと同様に――以上の話はこれらの長老たちがきっかけでした――神の霊は(一時的に)留まったこと、そして神の霊は、その霊の働きの媒体となった人たちに適切な事柄や、その働きが提供された人々に有益な事柄を一時的に成し遂げたということです[3]



[1] ... etiamsi propheta esse videtur, qui officio generationis obsequitur.生殖活動に関するオリゲネスの見解は、いわば善悪無記(アディアフォラ)である。

[2] Sed et alia plura (gesta) sunt in quibus sola sibi sufficit vis humana et neque res indiget neque decet adesse praesentiam Spiritus sancti.

[3] Spiritus Dei…operatum esse in tempore ea quae expediebat his per quos operabatur et utile his quibus ministrabatur.

 

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