しかし私たちは、別の章も見てみましょう。そこでは、次のように述べられています。「モーセは、民の長老たちの中から七十人の男を選び出し、彼らを証の幕屋の前に配置した[1]」。そして「神は、モーセの霊から受け取り、七十人の長老たちに与えた」。「霊が彼らの上に留まると、彼らは皆、預言した[2]」と(聖書は)言っています。しかし、「モーセの霊から取り、七十人の長老たちに霊を与えた」と(聖書が)言っているからといって、神がモーセから、いわば物質的で何かしら物体的な実体を取り上げて、七十の部分に分け、わずかな部分を長老たちの一人ひとりに与えたなどと、あなたはお考えにならないでください。精霊の本性をそのように理解することは、不敬虔です[3]。しかしあなたは、次のような仕方で、この神秘的な言葉の文彩をご覧ください。すなわち、モーセとモーセの内にある霊は、いわば極めて輝かしい何らかの光の灯明のようなもので、神はそこから七十個の他の灯明を灯しました。こうして、この最初の光の輝きは、それらの灯明に届きますが、光源それ自体は、(光の)分散によっていかなる損失も蒙りません。「主は、モーセの霊から取り上げ、七十人の長老たちに与えた」という言葉は、実にこのような仕方で、敬虔に理解されます。



[1] Nb.11,24.

[2] Nb.11,25.

[3] Cf.Philon Alex., De Gig.25; Origenes, De Princ.,I,1,3 (SC 252,95); C.Celsum, VI,70(SC 147, 365).

 

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