しかし、続きの個所で(聖書が)言っていることが何なのかを、私たちは見てみましょう。こう言っています。「彼らの上に霊が留まり、彼らは皆、預言した[1]」。霊が、任意の人の内に留まると、私たちは読みません。それは、聖なる幸いな人たちの内に留まると、私たちは読みます。実際、「神の霊は、清い心の人たち[2]」の内に、自分のたちの諸々の魂を罪から清める人たちにの内に留まります。これとは逆に、諸々の罪に屈した身体の内には、霊は宿りません――たとえ霊がその内にかつて宿っていたとしても。実際、聖霊は、悪霊との連帯関係や共同体に耐えられません[3]。実際、罪の瞬間に、どのような人の心の中にも悪霊が立会い、何らかの役割を演じているのは確実です。特に、諸々の悪い考えや数々の極悪の欲望をきっかけに私たちによって場所が与えられ、受け入れられると、聖霊は悲しみ、いわば居場所を狭められ、私たちから追い出されるでしょう。それゆえ使徒も、それらことがそのように起こることを知っていて、次のように言って勧告しました。「あなた方は、聖霊を悲しませようとしてはなりません。なぜならあなた方は、贖いの日に聖霊において刻印を受けたからです[4]」。したがって、罪を犯すなら、私たちは聖霊を悲しませます。しかし、正しく聖なる行いをするなら、私たちは、聖霊のための安息所を私たちの内に準備します。それゆえ、七十人の長老たちについて、「霊が彼らの内に満ちた」と(聖書が)いま言っていることも、彼らの生活の卓越性と諸々の徳を明らかにしました。次に、彼らの心の純粋さと精神の誠実さ、および理解力に応じて聖「霊が留まった」のですから、聖霊は、彼らの中で直ちに働き、働く機会が豊富にあるところで怠惰を受け付けません。実際、聖書は言っています。「そして彼らの内に、霊が留まり、彼らは預言した[5]」と。



[1] Nb.11,25.

[2] Cf.Mt.5,8.

[3] Pastor Hermae,33,3(SC53bis.,165):「霊は、悪霊によって息詰まっている。・・・なぜなら、主は忍耐の内に住み、悪霊は怒りの内に住むからである」。

[4] Ep.4,30.

[5] Nb.11,25.

 

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