したがって、預言をしたすべての人たちの内に、聖霊が留まりました。しかし、彼らのいずれの内にも、聖霊は救い主の内に留まるように、留まりませんでした。それゆえ、聖霊について次のようにも書かれています。「エッサイの根から若枝が出、彼の根から花が咲く。神の霊、知恵と知性の霊、勧告と勇気の霊、知識と敬神の霊がその上に留まり、神の畏れの霊がそれを満たすだろう[1]」。しかし、おそらくある人は言うでしょう。あなたは、キリストについて、他の人たちについて書かれている以上のことを何も示していないと[2]。確かに、他の人たちについて、「霊は彼らの上に留まった」と言われているのと同じように、救い主についても、「神の霊は彼の上に留まるだろう[3]」と言われています。しかしあなたは、他の誰かの上に、神の霊が、この七重の力の内に留まったとは述べられていないことにご注目ください[4]。これによって疑いもなく、一つの名称では明らかにできず、数々のさまざまな呼称で明らかにされる神的な霊の実体が「エッサイの茎から出た若枝の上に留まるだろう」と預言されています[5]



[1] Is.11,1-3.

[2] 直前の「彼らのいずれの内にも、聖霊は救い主の内に留まるように、留まりませんでしたという発言を受けている。

[3] Cf.Is.11,2.

[4] 本文に引用された『イザヤ書』11,1-3の句をさす。

[5] 一般に、「神の本性(フュシス)」や「神の実体(ウーシア)」などという言葉で示される事態は、一つの言葉(名称や呼称)では言い尽くせない豊かさ(深み・神秘)を持っているというのが、オリゲネスの変わらぬ考えである。

 

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