あるいは、もしも、預言者たちが聖霊を受けた後に罪を犯し得たことが、あなたには信じられないことのように見えるなら、私たちが手にしているこのモーセ(の書)そのものに戻ることにしましょう。とにかく彼は、預言者たちの中でもっとも偉大でもっとも秀でた預言者です。彼自身が自分について書き、罪を犯したことの証言を自分自身について与え、次のように言っています。「不信の者たちよ、私の話を聞きなさい。いったい私たちは、あなた方のために、この岩から水を湧き出させるだろうか[1]」。この言葉によれば、モーセは、「言い争いの水で[2]」主を神聖視しませんでした。すなわち彼は、神の力を信用しませんでした。たしかに彼は、「主は、この岩から、あなた方のために水を引き出すことができる方である[3]」と言いました。しかし、不信の念に襲われたかのごとくに応えて言っています。「いったい私たちは、あなた方のために、この岩から水を引き出すことができるだろうか[4]」と。このように、これらの言葉によって罪が彼にあると、神によって見なされているわけですから、彼がこれらを語るときには、聖霊から語ったのではなく、罪の霊から語ったのは確実です。したがって、モーセほどの偉大な預言者が、ある時は神の霊をみずからの内に持ち、またある時は――すなわち罪の時は――それを持たなかったことが聖書の証言によって明らかにされるとすれば、他の預言者たちについても、同様の考え方が保持されてしかるべきです。



[1] Nb.20,10.

[2] Cf.Nb.20,12.

[3] Nb.20,10.

[4] Nb.20,10.

 

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