11 また、「私は、今まで生きている人たちを賞賛する以上に、死んでいる人たちを賞賛した[1]」と伝道者が言っていることも、次のことをどうして明らかに示していないでしょうか。すなわち(それによって)伝道者は、この世に対して死んでいる人たちの方が善いと言っており、この世に対して生きている人たちの方が劣っていることを表明しているのです。実際、もしもあなたが文字通りに理解しようとすれば、どうして死んでいる人たちの方が、生きている人たち以上に賞賛されるでしょうか。人が賞賛されるのは、通常、その人が善き意思と意図ととによって成し遂げた事柄においてです。しかし、(人々に)共通のあの(自然的な)死は、意思によっても意図によっても訪れるものではありません。では、どのような意味で人は、自分の意図に反して受ける苦しみにおいて、賞賛に値すると思われるのでしょうか。さもなければ、海に沈んだエジプトの王ファラオは、海から生きて出たモーセに優って賞賛されるでしょう。水の中で死んだエジプト人たちも、「海のただ中の渇いた所を通って渡った[2]」神の民以上に賞賛されるでしょう。あなたは、そのように理解してはなりません。あなたが死んだことによって賞賛されなければならないとすれば、それはあなたが、「私はキリストとともに十字架に付けられた。生きているのはもはや私ではなく、私の中でキリストが生きている[3]」と言うことができるときだということを、お知りおきください。もしもあなたが、この代を棄て、諸々の悪徳を斥け、もはや罪に向かわず、罪に対して死んでいるなら、あなたの方が、罪に生きている人よりも善いです。そして、あなたにおけるそのようなしは、賞賛に値するでしょう。なぜなら、自然の法則に従ってどのような人にも訪れるあの共通の死のゆえに、賞賛される人は誰もいないからです。



[1] Qo.4,2.

[2] Cf.Ex.14,28s.

[3] Ga.2,20.

 

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