12 以上の事柄は余談となりました。しかし、神の言葉がミリアムを、その悪口の罪故に、そしてその懲らしめとして「水子になった[1]」と言っている個所に関して、以上の事柄に言及する必要がありました。それは、非難に値する水子と賞賛に値する水子とがいることを私たちが示すためです。使徒も、私たちが上に述べた(優劣の)数々の段階の中には、賞賛に値する水子の段階のようなものもあることを知っていて、自分自身について次のように言っています。「すべての人たちの最後に、水子のような私に彼は現れました[2]」と。これによって彼は、生きている人たちと死んでいる人たちとに自分が優っていると見なしていますが、まだ生れたことのない人たちの後に自分を置いています。こうして、ミリアムは、水子のようになりました。なぜならあの民は、律法の下では「完全な人」になれなかったからです。それは、パウロも次のように言って、表明しているとおりです。「律法は、誰一人として完全な人に導かなかった[3]」と。同じパウロは、信仰から滑落して、水子のように変わってしまったけれども、完全な誕生をもたらす諸教程に再び向かわせた或る人たちについて次のように言っています。「私の小さな子たちよ、あなた方の内にキリストが形作られるまで、私は再びあなた方を産むという苦しみを味わっています[4]」と。



[1] Nb.12,12.

[2] 1Co.15,8.

[3] He.7,19.

[4] Ga.4,19.

 

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