さらにこれに、次の言葉が付け加えられています。すなわち、「そして彼は、主の栄光を見た[1]」と(聖書は)言っています。いつモーセは、主の栄光を見たのでしょうか。それは、主が「山の上で変容し」、「モーセがエリアとともに」彼の傍に控え、「彼と話をしていた[2]」ときであると、私は申したいです。ですから、この次の個所で、「なぜあなた方は、私の僕モーセの悪口を言うのを恐れなかったのか[3]」と、(聖書が)付け加えているのは当然のことです。明らかにこの言葉は、諸々の福音を受け入れているように見えるが、他方でモーセを貶している人たちに向けられています[4]。彼らは、(このように)責められて当然です。なぜなら彼らは、福音を通して、モーセがエリアと一緒に、主の栄光を見たことを学びながら、律法と預言者たちを敢えて貶したからです。ですから私たちは、モーセの悪口を言ったり、律法を貶したりしないようにしましょう。むしろ私たちは、モーセとともに「栄光化される[5]」に相応しくなるために、「律法の聴き手」ばかりでなく、「行い手にも[6]」なりましょう。



[1] Nb.12,8.

[2] Mt.17,1s.

[3] Nb.12,8.

[4] キリスト教グノーシス派をさす。

[5] Rm.8,17.

[6] Jc.1,23.

 

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