しかし、次のような場合、人々はモーセの悪口を言う口実を提示するのではないかと、私は思っています。たとえば、『レビ記』や『民数記』が朗読されたのに、「謎の内に」書き記された諸々の事柄の「真相[1]」がどのように理解されるべきかを示せないとき、すなわち、律法において朗読された諸々の事柄を霊的に説明できないときです。実際、諸々の生け贄の祭式や諸々の安息日の遵守あるいはその他の同様の諸々の事柄の遵守が教会の中で朗読されるのを聞く人々が当惑し、次のように言うのは必然です。「なぜ、これが教会の中で朗読される必要があるのか。ユダヤ人の諸々の掟や蔑まされた民の諸々の戒律は、我々にとって何の役に立つのか。これらはユダヤ人たちのものであり、ユダヤ人たちがそれらを気遣うべきだ」と[2]。そこで、このような数々の当惑が聞き手の人たちに生じないようにするには、律法の認識に努め、「律法は霊的である[3]」という観点から、朗読された諸々の事柄を理解し説明すべきです。そのようにすれば、教師たちの故に、いや(彼らの)手抜かりと無関心の故に、不案内な人たちや無学な人たちがモーセの悪口を言うことはないでしょう[4]。むしろ私たちは、文字の「覆いが私たちから取り除かれるよう、主に向き直りましょう[5]」。そうすれば、モーセの顔が私たちに醜く見えることはなく、栄光に満ちた美しい顔として現れ、かくして私たちは、彼を貶すことなく、彼の諸々の理解の偉大さの故に、彼の栄光を賛美し誉め称えるでしょう。



[1] Nb.12,8.

[2] 旧約の神を劣位の神とするキリスト教グノーシス派を念頭に置いた発言であろう。

[3] Rm.7,14.

[4] 律法を霊的に解釈し、人々を導くのは、教師たち(doctores)である。

[5] 2Co.3,16.

 

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