「神の激情の怒りが彼らに臨み、彼らは退いた。そして雲が幕屋から離れた。見よ、ミリアムが重い皮膚病にかかり、雪のように(白く)なった[1]」。主の激情の怒りは、悪いことを語り貶す人々の上に生じました。しかし、「雲が幕屋から離れた。見よ、ミリアムが重い皮膚病にかかり、雪のようになった」と(聖書が)言うとき、先ず「雲が退いた」こと、その次に重い皮膚病に満たされたことを入念に考慮しなければなりません。それはつまり、何らかの点で聖霊の恵みの下にある人でも、中傷し貶すならば、聖霊は中傷の後でその人の下から離れ、こうして彼の魂は重い皮膚病に満たされることを示すためです。実際、以前の民も、みずからの内に神の恵みを持っていました。しかし、真のモーセ、すなわち私たちの主イエス・キリストに数々の冒涜する言葉を及ぼした後に、雲は彼らから離れ、「いと高き山の上で」私たちのところに移りました――それは、私たちの救い主が「変容し、光り輝く雲が彼の弟子たちを覆い、その雲の中から、『これは、私の望みによくかなう私の愛する子』と言う声がした[2]」ときです。ですからその後、「ミリアムは重い皮膚病にかかり、雪のようになりました」。雲が望んでいる限り、ミリアムは重い皮膚病にはかかっていませんでしたが、雲が離れると、重い皮膚病にかかりました。神の訪れ[3]があの民のあるうちは、あの民は重い皮膚病にかかりませんでした。ところが、神の訪れが離れると、顔の恥辱がその民を覆いました。私たちは、悪口をいい、悪い行いをし、悪い考えを持つことによって、この雲が私たちから離れるのではないかを心配しましょう。たしかに神の恵みが私たちを捨てたとき、私たちの内に、罪による重い皮膚病が現れるでしょう。



[1] Nb.12,10.

[2] Mt.17,5.

[3] visitatio Dei.

 

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