「アロンは振り返り、ミリアムを見た。みよ、彼女は重い皮膚病にかかっていた。アロンは、モーセに言った。『主よ、どうかお願いします。私たちに罪を帰さないで下さい。なぜなら私たちは、私たちが罪を犯したことを知らないからです。(ミリアムが)死と似たものになりませんように。母の胎から出された水子のようになりませんよう。(罪が)その肉の半分を食べ尽くしました』[1]」とあります。(聖書は)この個所で、次のことを示そうとしています。すなわち、あの民は、その母の胎の中で、すなわちシナゴーグの胎の中で形作られましたが、完全で無欠の出産に至ることができなかったということです。実際、水子が不完全で形を成さないまま産まれるように、あの民はある期間、「母の胎」の中に、すなわちシナゴーグの学校の中に置かれていましたが、数々の罪が生じたため、完全無欠な姿を与えられて活かされるには至りませんでした。それ故、あの民は、不完全で未成熟の「水子」のように捨てられました。なぜなら(聖書が)言っているように、罪が「その肉の半分を」食い尽くしたからです。

 しかしながら、時折、善い水子もいます。しかし、他の諸々のものと比較されるときに、善い水子が語られます。たとえば伝道者は、次のように言っています。「私は言った。彼よりも水子の方が善い[2]」。彼とは、誰でしょうか。それは、「虚栄の内を進み、諸々の闇の中を歩む[3]」人だと(聖書は)言っています。ですから(伝道者は)、水子は無条件に善いと言っているのではなく、虚栄と無知の諸々の闇との中で送られる生活に比べて善いと言っています。伝道者の許で、個々のものについて或る比較がなされています。



[1] Nb.12,10-12. なお、「水子」の原語(ラテン語)は、aborsusである。

[2] Qo.6,3.

[3] Qo.6,4.

 

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