同時に、(聖文書の)言葉は、来るべき代々に成し遂げられる神秘を含んでいます。それによると、神は、この民が退けられた後、別の民を立ち上げると約束しています。実際、(聖文書は)こう言っています。「私は、彼らを死によって打ち、彼らを滅ぼす。私は、あなたとあなたの父の家を、この民よりも大きくはるかに偉大な国民にする[1]」と。したがって、この脅迫は、怒りではなく、預言です。なぜなら別の国民が、すなわち諸国の民が選ばれることになったからです。しかしそれは、モーセを通してではありません。なぜならモーセは、(この民のために)みずから釈明をしているからです。実際、モーセは次のことを知っていました。すなわち、約束された偉大な異邦の民は、モーセを通してではなく、イエス・キリストを通して召集されるようになること、そしてモーセの民ではなく、キリストの民と呼ばれるようになることを、モーセは知っていました。したがってモーセは、この民のために多くの言葉を使って赦しを請います。しかし主は、均衡の取れた自制によって懲罰の方法を按配し[2]、次のように言います。「エジプトから出てきたが、私を試し[3]、不信のままだった人々は、この荒れ野で倒れる[4]。彼らは、私が彼らの父祖たちに誓って約束した土地を見ることはない[5]。しかし、私とともにここにいる彼らの子どもたち[6]、善や悪を知らない者たちは誰でも[7]、その土地を見るだろう」と。

 おそらく、「私とともにここにいる彼らの子どもたち」と言う主の諸々の言葉の中には、さらにいっそう奥深い神秘の何がしかがあるにちがいありません。「ここ」とは、どこでしょうか。そもそも、「私とともに」とは、どのようにしてでしょうか。「聞く耳のある人は、聞くべきです[8]」。



[1] Cf.Nb.14,12.

[2] Cf.Nb.14,13-20.

[3] Cf.Nb.14,22.

[4] Cf.Nb.14,29; 1Co.10,5.

[5] Cf.Nb.14,23.

[6] Cf.Nb.14,24.

[7] Cf.Dt.1,39.

[8] Mt.11,15.

 

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