差し当たり私たちは、次のことを申しておきましょう。私たちの父祖たちは、あの以前の民でした。しかし私たちは、彼らの子どもたちであると。彼らは、罪を犯しために捨てられ、「倒れました[1]」。これに対し、彼らの子どもである私たちは、「善や悪を知らなかった[2]」ため、彼らに代わって立ち上がり、立たされました。なぜなら私たちは、神から来る諸々の善も、罪から生じる諸々の悪も知らない「異邦人たち」に属しているからです[3]。しかし、捨てられた彼らの後を引き継いだ私たちは、そのような転落の先例を恐れ、パウロの警告を聞くべきです。彼はこう言っています:「しかしあなたは、神の厳しさと慈しみを考えてください。倒れた者たちに対する厳しさと、あなたに対する神の慈しみを――ただし、あなたが神の慈しみの内に留まっている限りで。さもなければ、あなたも切り捨てられていたでしょう。彼らも、不信の内に留まっていなければ、接ぎ木されるでしょう[4]」。



[1] Cf.Nb.14,29.

[2] Cf.Dt.1,39.

[3] Cf.Rm.9,24.

[4] Rm.11,22-23.

 

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