しかし、おそらく或る人は、一日の罪に対して一年の責め苦で報いることが神の慈しみに適していることを否定するでしょう。そればかりか、神がどんなに義であろうとも、一日に一日を報いるなら、その神は優しとか恵み深いとは思われないと、その人は言うでしょう[1]。そこで、この件に関して、私たちが、もしかするともっと明瞭な数々の事例によって、この問題の難しさを説明できるかどうか、あなたはお考えください。身体に傷が加えられたり、骨が砕かれたり、諸々の神経の筋が切られた場合、この種の諸々の傷は、一時の間に諸々の身体に生じるのが常ですが、その後に、非常に多くの激しい苦痛と痛みの内に、多くの時間をかけてやっと治療されるのが常です[2]。実際、(傷のある)場所にどれほど多くのうずきや、どれほど多くの苦痛が生じるのでしょうか。しかし、もしも人が、同じ傷のところや同じ骨折のとこで、再び、そして、頻繁に傷を受け、頻繁に骨折するなら、それはどれほど多くの痛みと、どれほど多くの苦痛の内に治されることでしょうか。どれほど多くの時間を費やして健康に至でしょうか――もしもそれができるなら。そして、身体のぎこちなさや傷跡の醜さを残さないほどに完治することはほとんどないでしょう。



[1] たとえば、マルキオン()の見解を暗示している。

[2] 『エゼキエル書講話』X,4にも同様の発言がある:「手が折れ、足が潰されるのは一瞬です。しかし、一瞬の内に起こったことが、三月の内に治ることはほとんどありません」。

 

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