あなたは、今度は、身体の例から魂の諸々の傷に移ってください。魂は、罪を犯すたびに、そのつど傷を受けます。魂が、まるで諸々の槍や諸々の剣によってかのように、傷つけられるのを、あなたが疑わないように、使徒が次のように勧告するのをお聞きください:私たちが「信仰の盾」を取るようにと。「それによってあなた方は、悪者の放つすべての火矢を消すことができる[1]」と(彼は)言っています。ですからあなたは、諸々の罪は、魂に向けられた悪者の諸々の矢であることがお分かりになるはずです。しかし、魂は、諸々の矢から諸々の傷を受けるだけではありません。「諸々の罠が、その両足の下に備えてあり[2]」、「その諸々の歩みが揺らぐ[3]」とき、両足の骨折の憂き目に会います。したがって、これらの、そしてこの類の諸々の傷は、どれほどの時間をかけて癒されると、あなたはお考えですか。ああ、もしも私たちが、一つひとつの罪を通して、私たちの内なる人間がどのように傷つくか、悪い言葉がどのように傷を与えるかを見ることができるなら。あなたは読んだことがありませんか、「諸々の剣は傷を与えるが、舌ほどではない[4]」といっている言葉を。ですから、魂は、舌によっても傷つきます。諸々の悪い考えによっても、諸々の悪い欲望によっても傷つきます。また、罪の諸々の業にも砕かれ、押しつぶされます。私たちが、もしもこれらすべての事柄を見ることができ、傷ついた魂の諸々の傷跡に気づくことができるなら、私たちが死に至るまで、罪に抵抗するのは確実です。しかし今、悪霊に満たされたり、精神において常軌を逸している人たちが、(自分たちが)傷ついているかどうかに気づかないのと同じように――なぜなら彼らには、自然的本性的な諸感覚が欠落しているからです――、私たちが、代の諸々の欲望や正気を失っていたり、諸々の悪徳に酔い痴れていれば、罪を犯すことによってどれほど多くの傷やどれほど多くの骨折を私たちが受けるか、私たちは気づくことができません。したがって論理の当然の帰結として、罰の、すなわち癒しと治療の期間は、それぞれの傷ごとに、傷の程度に応じて引き伸ばされ、完治の期間は延長されます[5]



[1] Ep.6,16.

[2] Ps.56,7.

[3] Cf.Ps.36,31.

[4] Si.28,18.

[5] 罰としての治療は、もちろんオリゲネスに独自の考え方ではないとだけ、言っておく。

 

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